昭和54年7月18日 月例祭

 今朝からの御理解に、神参りをするに、雨が降るから風がふくからえらいとおもうてはならぬ。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃというごりかいがあります。その御理解に基いて頂きましたが、今日研修をさせて頂きますときに、ある修行生の発表を聞かせて頂いて、何かこぉ~「  」というか、素晴らしい感じが、よかったし、有り難かったから、それを今日の「      」にいたしたんですけれども。こういうことを言っています。
 3代金光様が、信心には辛抱することが一番大事でございますとおしゃった「   」
辛抱することが一番大切だとおしゃった。それなのに、その一番大切なものを私共はおろそさかにしておるということを「   」どうですかね。
 一番大切なものをいうならおろそかにしておるということです。もちろん信心辛抱ということにも、色々ございますけれども。がんもくのない、焦点のないね、どうすることが本当だが、分からんというのではなくて、この道を行けば間違いない。この道を進めばと、いう、そのはっきりしたところを目当てにして一歩づつでもそれに近づいていくということ。そのためにはやはり辛抱がいるということ。辛抱力を作らなければならない。そしてその辛抱力が段々辛抱の徳ともなる。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃね。
 雨が降るとおじゃるなというのに、ぬれておじゃればなお可愛いと。歌の文句ではないですけれども、こういう雨の中に、風の中にね、参ってこんでもいいのにと。例え言われても、参らずにはおられませんという、いやそういうときほどしに楽しいんだ、有り難いんだ。「   」だろうとね。色んな事情でお参りが出来ない事情がいくらもあります。それでもやはりそれをおうして、お参りをしたときには、もうここへついたときには感動するでしょう。あれは神様がね、ぬれておじゃれば、なお可愛いという神様の情念が私共にかようてくるから。そういう体験をお互いはもっております。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと。その徳をうけなければ、人間の幸せ、魂の助かりということにはなりません。お願いをして、おかげを頂いたということで、魂が助るということはありません。信心はどこまでも魂の助かりを願ってのことなのです。昨日、一昨日でしたか、日田の井出さんのお宅のお父さんの10年の式年祭がありました。そしてお母さん、日、月はちがいますけれども、5名の方達のいれいさいそれに、「   」御霊様達も一緒に「   」それこそせいだいな、御霊の祭り「  」でございました。
 その時に、今丁度ご霊前におそないしてあります、あの今日丁度お参りして見えてきて、その花。かんながらにあつまってくるその花の中からいつも御理解を頂きますから。その御理解を伝えておりましたら、あの今日参ってみえてから、それがあの花は、「   」思いもかけないところから頂いたんです。というのです。
 まぁ~本当にかんながらなことだね、もうしたは菊でいっぱい。そして上にこぉ~「            」私はなんという花か、名をしらない花ですけれども。御理解を頂くとに、これはだいたい、なんの花だろうかと私は思うた。菊の花というのは、おそらく御霊様達が合楽世界におかげを頂いておる。合楽のシンボルのようにいわれる菊の花のなかに、御霊達がおかげを頂くことで「    」頂いておることであろうとこぉ~思うた。真中に二本を「  」いれて、かき色の花がある。なんの花だろうかと思うたら神様から、ごくらくちょうと頂いたんです。
 まぁ~ごくらくちょうという「  」はどんな「   」なのか。またごくらくちょうという花があるかないかは知りませんでしたけれども。そのご理解を頂いて、まぁ~ここにまるしょうで来ております、その井出さんの子供さんが帰ってからすぐ字引を引いてみた。そうしたやっぱりごくらくちょうという「  」がおって。おの花とお母さん、同じかき色のあれとよぉ~にた、花のごくらくちょうというんだよ。と言うて申しましたという。
 合楽の先生はどげなんことでん知ってなさるというて、子供が申しましたと、こぉ~言うんですね。まぁ~ごくらくちょうといえば、私共が御霊の世界にいって、まぁ~最高の世界だといわれていますけれども。現在合楽では、その極楽のもう一つ向こうにある合楽の世界に住まわなければ本当なことではないといわれておるわけなんですね。
 私はその御霊様のお祭りのことを神様に御届けをさせて頂きましたら。もうそれこそ偉大なきかんしゃがですね、「  」さぁ~っとすべりこむようにしてはいってきたところを頂いた。そうしたらその「  」むこうの方から、ひとだんたいの方達が、早くのらなきゃ、乗り遅れるというて、そのいうなら感じで、その汽車に乗り込まれるところを頂いた。ははぁ~私はちょっかんした、この汽車こそ、このきかんしゃこそ。合楽行きのきかんしゃだなぁ~と思うた。
 井出さんはある教会で、熱心に信心をしておられてかいしきのおかげも頂いておられたね。ですからね、そのいうならば、これはみなさんでも同じです。合楽にご縁を頂いた、もう~信心によらなければ、人間の幸せはありえないと、まず悟れたところからが信心なんです。一生懸命にお参りをして、このことばいっちょう頼まんならおかげをいただかならん。お伺いをせにゃならんという間はまだ本物じゃないのですね。
 本当の人間の幸せ、助かるというものは、信心によらなければできることではない。物でも金でも健康でも、家庭円満というておって、そういう人間の幸せの条件が足ろうておっても、心がもしばんでおったら、心が疲れておったら、心が助かっていなかったらもうその条件が足ろうても心一つでそれをおかげにすることはできないでしょう。いうなら極楽世界にすんでおっても、「  」ね。極楽世界にまぁ~あちらこそ極楽だろうと思うところにおっても、そこに悩みがあったり、難儀があったりしたんではそれは本当のことじゃない。だからまずは、この心そのものがたすからなければならない。
 これは私の知りえたはんいんで御霊の世界を申しますならね、それは教祖様もおっしゃっておられるに、御霊柄の助かりね、私共が信心をして、あの世に持っていけれるのは御神徳であり、この世にも残しておけれるのも信徳だと、こぉ~言われておる。だから私共が信心の徳を頂いて、あの世にも持っていけれるほどしのおかげを頂きたい。
 けれども私が終わってから、元の教会の教会長先生が亡くなっておられませんけれども、先生の御霊様にお礼を申し上げなければいけない。あんたのところでかいしきしておったおかげでです。とにかく助かりたい、助からねばと願いをもっておるということ。いうならば今日のご理解を皆さんに聞いて頂こうというのは、皆さんが本気で助かりたいと、願うということね。
 本気で助かるためには健康でなければなりませんという。健康それではなくて、本気で助からなければならないというのは、私の心が助からなければならないということである。
その助かった心に条件が足ろうてくるというもんでなければならん。
 そこが信心のいうならいっせんじょうに出たところね。井出さんのところの御霊様達はみんな助かりたいというところ。
 これは例えば申しますならばね、先日から善導寺の原さんがお書きになっておるレポートを見せて頂いた中に書いてあったんですけれども、ふしんを思い立っておられることを知っておった。ところが、いっこはじまらなさんから、どうしたことですかと聞いたら。それが、どこどこに参ったら二年間「    」といわしゃった。それは~本当に二年間またなんなって、そげなんことをするよりか、金光様に参りなさい。
 もういつからでも、それこそ「   」神様に、天地の親神様にお願いをすれば、そげなんことはありませんがと、いうたけれども。いや~昔から言うてあることをやっぱり守らなければ。もうそういう不自由難儀なことになれきっておる人達ばっかりだということをいうておられます。皆さんのしゅうも、そうでしょうか。一辺合楽に参ってみなさい。いや~もうたいしたまねは出来ん。もう無理に引っ張ってくると、こう、こう、して嫌というのです。
 今日もそげなん人がありました。もうせっかくそこまで送ってくれたけんで、はぁ~今日こそこの人ばお導きしようと思うて、ここまで自動車で乗せてきてやっちゃるけん。だけんあんたもどうでもこうでも、いっぺんはお参りをしなさいと、こう、こう、してからそのまぁ~入りなさんじゃったっち。まぁ~ここまで来なさったけんで、だいぶん近づいたことは、近づいたという御届けがあたんですね。
 私共の周辺にはね、もうそれこそね、難儀ということのほうも、そのままそれは当たり前だ。もうこの世はこの世界だと決めておられるね。だからそういう難儀な人達がいっぱいですから、合楽示現活動に参画するというて、合楽示現をさせて頂く御用をさせて頂いておっても中々やっぱり難しいということが分かります。
 これは御霊の世界においても同じです。もう例えわかりやすくいうなら、地獄に落ちておる御霊が、もうここが御霊の住まいだと思うておるんですね。
 もうそれこそ、あの蛆虫が固まって、ぐよぐよしておるような様子の中にあってもです、助かろうとも思わない。私が、「  」家の霊祭なんかのときに、縁があるから、縁のある御霊を助けたいというて、しても、それこそこう、こう、して、その「   」御霊があるんです。人間の世界でも同じですね。ただ有り難いのは助かりたいというなら、かいしきならかいしきをさせて頂いて、いうなら助かる、これから助かれるという、そのいっせんじゅようにでておるけれども、ならその御霊様に助かる手立てをほどこしていない。助かる手立てが分かっていないというのが、昨日の「   」さんのところの私は御霊様であったと、こぉ~思うんです。だからここで、合楽理念を「   」合楽理念のきかんしゃに今日はのせて頂けれるというので、もうそれこそ御霊様の表面に出られた御霊様は5、6名でしたけれども、「   」たくさんの御霊達がだんたいで、合楽行きへのきかんしゃに乗り込まれる様子を頂いてです。そこから合楽理念による他はない。御霊の助かりは合楽理念をもってする他はない。私共の場合であってもです。
 今日娘むこから、学院の古川です。もうはじめて手紙が、もう大変ぶあつい手紙がまいりました。もうこちらに来て、思わせて頂くことは合楽理念の素晴らしさ。合楽理念のありがたさということに、もうただ合楽では、頭で分っただけでしたけれども、日々の信心修行の中に合楽理念をもってすると、それこそ天地が自由になって下さるほどしのおかげの中にありがたい、勿体無い修行ができておるというて参りました。
 商売はもう合楽理念をもってする他はない。百姓が合楽理念をもってする他はない。魂、御霊の世界においても、合楽理念をもってするところに次々というなら助かりの手立て、手がかりというものが教えておる。御霊達が助かっていくね。
 私は今日研修の時に、そのうん~この極楽しょうの花の話をしておりましから、さだ先生がこの「  」字引を引いてみた。そうしたらそこに書いてあろう。なんとか、なんとか、「   」じゃったのう。はぁ~バードオブバラダイスフラワーというんだそうです。これが英語の名前。わめいでも、やはり極楽ちょうかというんだそうですという、あの、これをもってきて下さったから、はぁ~そうですかというて。これを見ておるときに、私がお知らせに頂いたのは、それこそ富士山のけいしゃというのはあんなもんだろうかと、こんなけいしょんのとこをですね、もうたくさんのそれが、薄暗い感じの中で、もう真っ黒な感じで、真っ黒な大きな荷物を、体ぐらい大きな荷物をしても、「  」ながら、このきゅうしゃ。その山道の「  」を一生懸命もう、限りなく登っておる様子を頂いたんです。もう何か身がじんとするような、よくない意味合いでね。いうならだからぞっとするような感じだった。もう沢山な黒い、暗いような感じの人達が、しかも薄暗い感じの中に、こういう山を、そしてこれにはちょうじょがない。もう限りがないというね。
 徳川いえやすがいうたけれども、この世の中はいうならば思い荷物をかついでね、とうるようなもんだというたそうです。あれは嘘です。あれはやっぱり地獄行きのことです。そんなことじゃないです。今日私が見た、もうさっきほど申しましたです。もう助けようというても、もう今の難儀なら難儀の中にあんじゅうしてしまっとる。いうならそれから抜け出ろうとしないね。もう難儀を、そのまま難儀になれてしまっておる。だから特別に助かるといわれても、なん~そげなんことで助かられるはずがないというように、本当に耳をかさないというのが、ほとんどの人であるように、ほとんどの人がこういう生活をしておるという。
 この世は苦の苦の世界でいつかはようなる、いつかはようなるで、結局そのまま地獄にいってしまう。この世で苦しい、苦しいでとうっていくでしょう。でそのまま、上じゃない。ただ上に「      」。結局地獄行きを、この世から一生懸命で地獄行きをしておる。
 信心とは、それに気付かせて頂いて、我情をとり、我欲を取らせて頂く稽古をさせてもろうて、そういうところに登っておったのが、反対にくだりだすということだろうとこう、思うんですね。そして我情をとり、我欲を取らせて頂く稽古をさせて頂いて、いうならば昨日の御霊様ではないですけれども、本気で助かりたいというところから、そこからはじめて登っていく道をね、まぁ~合楽道ということになるのではないでしょうか。
 だからいくら信心をしておってもですね、ただこのところをただ登って行って、苦しいからお願いをする、分らんからお尋ねをするという程度では同じこと。だから信心というのはね、どうでも魂が助かる、心が助かるという手立てをです、頂かせてもらう、聞かせてもらおう。それにはね、いよいよ合楽の信心は例えば、土の信心に極まった。天の心、土の心。いわえる、天地日月の心になることが肝要だといわれる。そういう信心にむきを変えての信心生活。
 そして我情はない、我欲はない。そこには我が身は神徳の中に生かされてある喜びというものが段々分かって来る。だからこういうのぼりかたをしておるところから、もう一辺ここのところにおりてきて、人間の真実の助かりというものがただ一生懸命に苦労すれば、辛抱すれば、お金さえためれば、知恵さえできればということではないということをまず分らせて頂くということが先なんです。 
 そしてなら、心が助かるためには、魂が救われるためにはどういう生き方があるかということを願いとして、お参りをして来るのであり、きょうちょうです。お話を頂くということにならなければならないのです。だからそういう極楽行き、合楽行きのいうなら道であってもやはりけっして楽なことはないでしょう。
 ところがそれが、こちらの道はね、必ず有難うして、楽しゅうなって、ゆかいになってくる道なんですね。段々幸せになってくる、心が豊かになってくるね。
 しかもその大きくなる豊かになるということには限りが無い。これもだからあのちょうじょうがない。もう限りなくこれを登っていくね。御霊の世界に入ってもこの道をとうらせていただく。だからいうならこの道から回れ右をしての生き方というものが、まず出来たところから真の信心の入り口ということがいえれるのではなかろうか。
 まず心が助かることのために、こんなにひねくれた心で助かるはずがない。こんなに汚れはてた心では助かるはずがない。それをね、いわばなおそうとも、まっすぐにしょうとも、しないならばいくら信心を頂いておっても同じだということになります。
 昨日、「    」先生のところに電話が掛かってきた。そして自分が勤めておる会社が、もう人間関係がひじょうにその、あやこしくてねとにかく辛い。ですからやめたいと思う。親先生にやめて頂こう、「     」ということである。
 それで私はそのことを昨日お願いをさせて頂きましたら。今男と「    」今日のこですね、今。男という「   」は、男という「  」は田を書いて、力と書いてあるでしょう。だから合楽に「    」理解ができますと。今のままが良い。しかもそこを信心でとうればおかげの受けものができるぞ。力が受けられるぞという、こぉ~御理解であったね。
 田はいうならばおかげのうけばという。だからお互いがいったんの田を持っておれば「  」いっちょうの田を持っておればはっぴょう。いわば「   」であります。
 だからこの田を段々広げて大きくしていくということにあるんです、信心は。これはもう限りがないんですね。そして力もまた限りが無いのです。
 けれどもそういうおかげの受けれるきかいに恵まれておってもね、もうきついからやめよう。例えば今朝の御理解ではないけれども、辛抱がしきれずに他に移っていく。またそこでも、良いことばかりはけっしてないということ。
 そこに、いうならばごしんいんを悟らせてもらい、分からせてもらうとです。そういう辛いことが、苦しいと思っておったことにお礼がいえれるような心の状態が開けてくる。
 いったんよりもにたんに、にたんにさんばんと自分の心が広がっていくことを楽しみの信心になるため、どうでも、この我情我欲の道ね。とにかく真っ黒になって、働きさえおればよいというような苦しい生き方から、いうならば同じ山道のような、さかみちのようなところをのぼりにいたしましても、登っていけば行くほどに、「  」が広がって行くという。
 こちらは薄暗いもう「  」もきかない、これが地獄道であるね。だから極楽道というのは、もう登れば、登るほどいよいよ「  」が広がって行くというね。しかもそれが楽しゅうなってくる、有難うなってくる、しかもゆかいにまで高められてくるという、いわゆるパラダイスを「    」ね。
 だからどうでもこの一線上にでらなければならないということであります。
 信心はね、辛抱することが一番大切でございますと。3代金光様がいうなら、じゅうしのおとしから、七十年間という、それこそ人間としてです、人の世にこういう修行がまたとあろうかという修行を続けてくださった。そして、いうならば金光様の実感であろう。
 はじめの間はつろうて、つろうて、よう泣いたとおおせられた。そのつろうて、つろうて、よう泣いたという中をね、親様が座っておれば楽じゃとおおせられたからただ泣く泣く辛抱しいしいに座っておりましたら、思うこともなくなり、欲しいものもなくなり、有難うて、有難うてという境地が開けになられた。
 そういう実感をもって、金光様はです。信心には辛抱することが一番大切でございますとおおせられた。だから辛抱さえしておれば、そんなら良いかというのではなくて、はっきりとした今日申します。こちらへ行けば地獄と、こちらへ行けば合楽道という、それをはっきりと目指させて頂いての信心辛抱でなければならんのです。
 今日もある方がもう何十年とあいう長い修行をされて、母さんの難儀苦労をづっとみてこられた。ところが段々年をとっていかれるにしたがって、様々な難儀がいうならば子供の上にやら、色んな事情の上に起こってくる。もう母がきのどくで、きのどくでとこう、いわれる御届けを聞かせて頂いたんですけれどもね。
 いうなら願目を間違えても、ただ金光様を唱えさえおればよいという辛抱だけではいけないということでしょう。合楽理念に基づくところの信心辛抱でなければならない。その内容は天地日月の心になることを肝要である。そんな難しいことを分からんというのではなくて、なそうと思えば、誰でもがそれを実行しおることのできれる教えを頂いて、おかげを頂かなけりゃならん。
 こうやって皆さん私の話を聞いて下さるんですけれどもね、聞いておるだけであって、それを実行しようという、しない人がある。なら今日も研修のときに、ある修行生が、あんまり簡単な、そのあっという間に「    」発表が。あんまり簡単だったから、私「   」に聞いていなかった。もういっぺん言うてくれんの。というたら、中々短い中に良いまとめてあったんですけれども。
 うかつに聞いておると、こうして、聞いておってもですね。あら今日はどげなん話じゃったじゃろうかになってしまう。
 私は今、皆さんにこれは、お願いをするように言うおることなんですけれども。いわば現金光様が病院に入院をして、かたいっぽの目を先日から手術をなさいました。今度の二十日にまたかたいっぽの目が手術あるそうです。どうでも元通りの御用がおできになられるように、おかげを頂きい。今度の夏季信行はもうここに焦点をおこうというて、皆と話し合っております。ですから、金光様のいうならば、無事平を祈らせて頂いて、日々お取り次ぎを頂いて、おかげを頂こうということを、なぜお取り次ぎを頂かなければならないかね。
 いうなら、このごろの研修のときに修行生の方達に金光様のことをお願いしおるかと言ったら。お願いをしおりますと。私共なりのおねがいをしておるとこう言う。だからあんたどんなりでは、あんたどんなりでしか神様は聞きなさらんよと。どうしてお取り次ぎを頂いて、お願いをしないかというて。なぜお取り次ぎを頂いて、お願いをしなければならないかということを私がかんでふくめるように何日も聞いてもらった。
 そして、金光様のことをどうぞ宜しゅうお願い。これは私はもうどんなに繰り返し言うても良いと思うから、このことだけは繰り返し言っておりますけれども、それを毎日頂いて追ってもです、もうこの人は、そんなに「   」分からん人でもないのにと思うけれども、絶対金光様ということを言いもせん、書き、おはつおうにも書きもしないという人はだいぶんあるんです。だから結局うかつにして、そこのところを聞き逃しておるじゃろうと思うのですね。
 あら本当うっかりしておったと気付かれる人はもう今夜からでも、明日からでもね、これは当然金光教の信心をさせて頂く者として当然なことでしょうが。ただ心の中ではお願いをしておりますといったようなことだけではなくてです。お取り次ぎを頂いて、お願いをさせてもらう。だからこうやって、なら今日は私は大変大切な話をしたと自分でおもうんです。
 信心しておっても、やっぱりこの真っ暗な道をさぁ~お金だ、物だといったようなこと、我情我欲だけで一生懸命登りつめておる人達がありはせんだろうか。それでもおかげは頂くということね。けれどもお徳を受けるということは絶対頂かれない。いっぺんここまでおりてこなければ。そして合楽道を極めていかなければいうならば、お徳の道は開けてこない。という、なら大事な話を「     」ただ聞いただけで、それを実行しようとしないならばです。それは聞かなかったと同じこと。ということになるのですね。
 どうぞ一つ聞いて、なるほど合点がいったことをさっそく実行に移していくという、私は信心がいります。どうじに今申しますように、もうこの道を行けば、間違いないと分からせて頂いたら、そのみちすがらにですね、例えばきついな、眠たいなもありましょう。色んな事情もありましょうけれどもそれをいうならば「   」していくことが信心辛抱である。その信心辛抱をさせて頂くうちにです、それが辛抱せんでもすむ、それが楽しゅう、有難うできるような信心がいただけてくる。そこには限りなく助かって行けれる道が開けてくると思うんです。
 昨日の井出さんのところの御霊様ではなけれども、助かりたいと願う心を前の教会の先生は金光教の信心によって助かるという。そこいっせんじょうまではだしておられたけれどもそれ以上助かっていく手立てをおしえておられなかったということ。
 だから皆さんがね、本気で心が本気で助かりたいという願いをです、立てなければならんということです。だから本気で助かることのためには、どういう生き方にならなければならないかということは、もうそれこそじゅうおうもじに、合楽では説かれておるのですからね。
 まずは自分の心が助かる。その助かるためにはどういう信心をさせてもらえたらいいか。それを真の信心というのです。二三日前、昨日、一昨日でしたかね、「   」そういうだいかいがございました。その中に、だいかいのテーマがしんのわとひかり、ということであった。結局私共がわを求めての信心。そこに光がさしてくるんだ。私どもに、光というものはないのです。私共の心がただお月さまのようにまんまるなっていくところに、いわば太陽の光がここにはんしゃして、それこそひるあざむくようなね。それこそ、仏様じゃろうか、神様じゃろうかといったような光をはなすことはできるけれども、その人自身には光はないのです。
 というて、ならこれが汚れはてておって、真っ黒闇であったんではいくら太陽の光がここにさしてきても光をはなすことはできないでしょう。
 はんつきさんなら、はんつきさんの明かりであり、みかずきさんならばみかずきさんの光だけしかないのです。それこそ心が黒の闇であるならば、もうそこには光がでおる。
神様の光を与えて、あててくださっても、光らないのです。だから私共がいよいよ心の助かりを目指すということは、いうなら和賀心の和である。その和の心をいよいよまるい、しかも大きな和を頂いていくということに精進するということがね、いわがうえにも、神様の光を受けて、いかにも私に光があるような働きを現していくことができるね。
 だからそのいうなら光の受けられる心をつくることが、信心だと分かったところから、本当の信心の第一歩があるということを今日は聞いて頂いたんですけれども。分かって頂いたんでしょうか。分かって頂いたらそれを一ついよいよ実行に移していただく。同時に今の金光様のこと。日々一つお届けをして一生懸命願ってください。
 4、5日前にこのたなかさんという、村内から参ってくる方があります。先生が毎日のように言うなさるけれどもすぐ「    」しておった。はっときがつかせて頂いたらみんなが、教祖金光様「    」を書きなさるのをみてから、はっ~ときがついた。それからその日からおかげを頂いて、御記念のときにもお届けをさしてもらって、御記念をさしてもらって、金光様の祈りを思わせて頂いたらどっから湧いてくるか分からん感動がわいて、もう本当にこういうありがたいことをどうして早く気が付かなかっただろうかといっておられます。それはあなたの信心がもう自分のことばっかりであったのが、自分の信心が、教団とか、教祖様とか、大きくなった祈りが。その祈りが大きくなったことを神様が喜んで下さったんですよねというて、はなしたことです。
 だから、何かのきかいをとらえては、自分の心が豊かに、大きくなっていくということをです。願いとさせて頂いても、信心でなければならならんということでございます。
                                    どうぞ。

末永愛